관리자

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14. 東京店での出来事

大阪から東京店に来られた社長との出会い 東京店の初デートのために、数週間前から予約を入れていた。予約から数日後、Aから電話があった。「大阪から社長が来られる」という連絡だった。お会いするのは、かれこれ3年ぶりになるだろうか。時は2006年頃のことだったと思う。嬉しい気持ちもあったが、どのようにお迎えすべきかという不安もあった。まずは新宿の高島屋(タカシマヤ)へ行き、ネクタイなどいくつかの贈り物を選んだ。東京店にいるAへのプレゼントも用意した。 大阪にいた頃は、学生という身分だったこともあり、AやBが食事代やカラオケ代などをすべて支払ってくれていた。僕が支払ったことは一度もなかった。日本において、それは当たり前のことではないが、 あの時の僕の論理は、「大阪では大阪出身者が、韓国では僕が支払う」というものだった。そして、学校の学費の請求書を見せ、支払い能力がないことをあらかじめ証明してまでいた。 しかし今回は、せめて何か贈り物でも用意して、これまでの感謝を少しでも伝えたいと思った。Bはいなかったが……。大阪で生活していた頃、私たちはお互いに「ありがとう」と言うことはほとんどなかったように思う。そして、それがむしろ自然だった。むしろ「ありがとう」と口にすると、距離を置かれているような感覚になる気がして、言えなかったのかもしれない。 百貨店で贈り物を選んでいる間、数えきれないほどの思いが押し寄せてきた。言葉にできないほどの感謝の念に、突然涙が溢れ、売り場の商品が白く霞んで見えた。いくら涙を拭って選ぼうとしても、視界はずっとぼやけたままだった。これでは品定めすらできないと思い、一度外に出て心を落ち着かせてから戻り、ようやく集中して贈り物を買い揃えた。 東京店に到着すると、社長が大阪や奈良のスタッフたちを連れて来られていた。 皆、再会をとても喜んでくれた。スタッフの中には、見知った顔もあれば知らない顔もあったが、僕のことはよく聞いていると言ってくれた。大阪ではなく東京での再会ということもあり、皆が喜びで声を震わせながら挨拶を交わした。 社長も「元気か?」と短い言葉をかけてくださったが、そのお声もわずかに震えているようだった。 東京店で初めてのデート 東京店での初デートの日、彼女を連れて店へ向かった。 店に到着するとAと少し言葉を交わし、スタッフも数人出てきて温かく迎えてくれた。どんな女性とデートなのか、興味津々だったというのもあるだろう。 ところが、席の案内からして普通ではなかった。二人での予約なのに、案内されたのは8人掛け以上の大きなテーブル席だった。私はAに席の変更を頼んだが、Aは「他のテーブルは予約で埋まっていて変更は難しい。それに、ここは最高のVIPに提供する席なんだ」と説明した。 初デートなので少し静かな場所を望んでいたのだが、位置も店のど真ん中に据えられたテーブルだった。 最初の注文を済ませて間もなく、Aが自ら料理を運んできた。そして、店を訪れてくれたことに対して長く丁寧な感謝の言葉を述べ始めた。その時、僕は何か「異変」を感じ始めた。 彼女と話をしようとするのだが、その合間にまた別のスタッフが料理を運んできては説明と挨拶を重ね、それが終わるやいなやAが戻ってきて追加の説明や大阪仕込みの「合いの手」を入れ始めた。その合いの手も、以前より格段に年季が入っているようだった。 僕がようやく彼女に話しかけようとすると、また別のスタッフが「サービスです」と注文していない料理まで持ってきた。 「この料理には、このような特徴がありまして……」 と説明しながらも、その口元には笑みがこぼれていた。まさに、とてつもなく賑やかな(わちゃわちゃした)雰囲気だった。 僕はもうサービスは十分だから止めてくれと頼んだ。そして、「今日は初デートなんだ」と大きな声で伝えたが、全く意味がなかった。 彼女はその状況が面白かったのか、スタッフたちの「止まらない大阪式のサービス」に終始笑い転げていた。 結局、スタッフたちも笑いをこらえきれず、最後はみんなで一緒に笑い合った。 初デートだというのに、その「止まらない大阪式のサービス」のせいで、彼女とまともに会話ができる状況ではなかった。 せいぜい彼女に「味はどうですか?」と尋ねるのが精一杯だった。 店を出た時には、すでにかなりの時間が過ぎていた。 幸い、彼女が帰る方向が**品川駅(しながわえき)**の方だったので、僕たちは一緒にそちらへ向かって歩いた。そして品川駅のホームに立ち、そこでようやくゆっくりと話をすることができた。彼女は「今日は本当に楽しかった」と言ってくれた。 今振り返ってみると、あの日彼女と一番たくさん話をした場所は、店の中ではなく品川駅のホームだったような気がする。 当時、僕は**天王洲アイル(てんのうずあいる)**に住んでいた。

13. 平凡な料理人を最高待遇で

日本最高の待遇 2006年ごろ、私は東京での生活を整理し、韓国へ帰国する準備を進めていました。その頃、日本の大手外食企業から入社のオファーを受け、当時外国人としては初めて「東京和牛エキスポ」の招待状もいただきました。しかし、私はすべて辞退し、帰国まであと2~3週間という状況でした。 ある日、知人を通じて知らない電話番号から連絡がありました。試食会を開催できるかという依頼で、私は試食会は可能だと答えました。 そのため、まず試食会を先に実施することになりました。一般的な手順ではありませんでしたが、それにはそれなりの事情がありました。すでにオープンの日程が決まっていたためです。私は自分なりに準備を整え、試食会当日には単品料理21品を披露しました。 その後、書類提出の段階では、東京勤務時代の在職証明書と大阪本店の手書き在職証明書を提出しました。また、東京での空白期間を証明するため、「東京大学大学院の受験不合格書類」も添付しました。ビザ更新の際に必要になるかもしれないと考えたからです。スタッフたちは意外そうな表情を見せ、「それでも東京大学か」と驚いていました。しかし、個人的にはこの結果を受け入れると同時に、自分の建築の道がここで止まってしまうのではないかという喪失感も抱えていました。 その後、会社のマネージャーとともに東京の有名飲食店をいくつか訪れ、自然な形で面接や給与交渉が進みました。当時、私は入社後のマスメディア露出や人物写真の撮影を避けたいと希望しましたが、会社側もこれを尊重してくれました。 ビザ手続きは社長と直接同行して行いました。キムラ(仮名)社長は「他の社員でも構わないが、給与が日本でも最高水準なので、万が一問題が発生した場合に即座に対応できる人が同行するのが適切だ」と言い、出入国管理局でビザ更新手続きを一緒に進めました。 入社後は、多くの試食会や料理写真の撮影が続きました。インタビューの依頼もありましたが、個人的な理由でインタビューには応じたものの、撮影は断りました。そのため、一部のインタビューはスムーズに進まないこともありました。しかし振り返ると、この経験を通して、自分の判断や対応について深く考える貴重な機会となったと思います。 限られた時間の中での挑戦や、想定外の出来事の連続でしたが、それらすべてが私の経験として積み重なり、今の自分につながっています。 日本三大和牛の一つである米沢牛 私が勤務していた会社では、米沢産和牛(よねざわさんわぎゅう)のみを販売するのが会社の方針でした。当時、勤務していた会社の基本方針は、米沢産和牛だけを扱うこと。これは単なる肉類の販売を越え、最高級和牛としての希少性を維持しようとするブランド戦略でもありました。そのため、米沢牛を仕入れる過程においては、常に慎중(しんちょう)な計画が必要とされました。 **米沢牛(よねざわぎゅう)**は、神戸牛(こうべぎゅう)に比べて飼育頭数がはるかに少なく、生産量が徹底して管理されているブランドでした。このように限られた供給量のため、仕入れ計画は少なくとも一週間前には確定させる必要がありました。一週間の予想需要と物量を正確に計算し、あらかじめ準備を整えなければならず、急な追加注文や即座の対応は事実上不可能な構造でした。 会社社長の親戚の方が米沢で直接牧場を経営されていたにもかかわらず、物量を遅滞なく正確に合わせることは決して容易ではありませんでした。供給そのものが極めて限定的だったからです。結局、正確な販売量を予測し、それに合わせて寸分の狂いもない発注計画を立てることが、私にとって最も難しく、かつ重要な課題でした。 しかし、肉の品質に関しては断然トップクラスでした。一般的にロースやカルビといった部位は飼育方式によってある程度の品質管理が可能だと言われますが、内臓に近いハラミや牛タンの品質は、私がこれまで見てきた中でも最高水準のものでした。 個人的には、伝統ある日本最高の米沢産和牛を扱ったという経験が大きな財産であり、またこのような機会を与えてくださった社長には、感謝の気持ちでいっぱいです。

12. 2005年、見知らぬ東京で

東京から大阪へ 2004年の年末から2005年の年始にかけて、私は再び建築を学ぶため、東京大学大学院への進学を目指して東京へ向かった。 東京大学大学院の出願書類には、学部時代の指導教授の推薦状と、卒業証明書および成績証明書が必要だった。そのため、書類を準備するには大阪にある母校を訪ねる必要があった。 今回の大阪行きは日帰りの予定で、早朝からの出発となった。私は新幹線に乗り、東京から大阪へ向かった。日本に来てから新幹線を利用するのは、この時が初めてだった。 おばあちゃんには事前に電話で知らせておいた。「おばあちゃん、今回は試験のために行くので、顔も見ずに帰ることになりそうです。」 すると、おばあちゃんは少し涙ぐんだ声で、「次でもいいからね」と私を気遣ってくれた。電話を切ったあと、何とも言えない気持ちになった。 私自身も、受験生の姿を見せるのは気が引けていた。もし立派な社会人として帰るのならまだしも、再び受験に挑戦する姿は、かえって心配をかけてしまうような気がしたからだ。 Aにも電話をかけた。驚いたような、弾んだ声だった。しかし、Aは大阪ではなく東京にいるという。以前、社長が「次の店舗はハワイか東京になるだろう」と話していたことを思い出し、「ついに東京店がオープンしたのだな」と思った。 嬉しくて、うまく言葉が出てこなかった。東京に戻ったら会う約束をして、私は大阪での予定を進めることにした。 BとCにも連絡しようかと思ったが、受験生という立場で電話をするのもためらわれ、結局連絡はしなかった。 大阪に到着すると、私はすぐに母校である大阪芸術大学へ向かった。電車に乗って学校へ向かう途中、車窓から見える懐かしい駅や街並みが次々と通り過ぎていった。 学校では書類を発行してもらい、指導教授と相談をしながら、今後の進路についてのアドバイスもいただいた。そして、友人と会うために天王寺駅へ向かった。 建築学科の友人との再会 友人Aは、建築学科で私の一つ前の学籍番号だった聡明な友人だった。そして、建築的な才能にも恵まれていた人物だったと思う。今でも印象に残っている出来事がある。 建築学科の課題発表のときのことだ。多くの同級生たちが大きな模型を用意していたが、彼はなんと上着のポケットから模型を取り出して発表を始めた。教室には一瞬、笑いとざわめきが広がった。彼も最初は少し戸惑った様子を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻し、豊かな想像力と生まれ持った話術で、ポケットから取り出した超小型の模型を説得力のある形で説明していった。気がつけば、教室は静まり返り、皆が彼の話に引き込まれていた。 天王寺駅の近くの居酒屋で向かい合い、久しぶりに建築の話を心ゆくまで語り合うことができた。学部時代は、顔を合わせると習慣のように課題の進み具合を尋ねるのが、いつの間にか挨拶代わりになっていた。 「課題、どこまで進んだ?」「模型、もう作った?」 そんなやり取りが、当時の私たちの日常だった。 今では、韓国や日本の建築家についての話や、友人の建築士試験の受験についてなど、それぞれの近況を語り合った。互いにそれぞれの道を懸命に歩んでいることを実感し、どこか嬉しくもあり、頼もしくも感じられた。 話に夢中になっているうちに、気がつけば夜の10時を過ぎていた。彼はその時間から、神戸の自宅までタクシーで帰らなければならないと言った。大阪から神戸までタクシーで帰るというのは、決して気軽な距離ではない。それでも彼は、久しぶりの再会の時間を惜しむことなく過ごしてくれた。 その場では、卒業した他の建築学科の友人たちとも電話で話した。彼らは、東京よりも大阪で一緒に勉強しながら過ごした方がいいのではないかと勧めてくれた。そして「東京は怖いところだし、詐欺師も多いから気をつけた方がいい」と、心配してくれたのだった。 Aと東京店で過ごした7日間 大阪での予定を終え、東京に来た。ちょうどその頃は大学院入試の準備で時間に余裕がなく、東京に来てからも、東京店にいるAをすぐに訪ねることはできなかった。 慣れない初めての東京で、人々の速い歩みや賑やかな街の中に、少し緊張も感じていた。それでも、大阪時代の友達Aがいるというだけで、大きな安心感があった。 大学院の入試を終えた後、東京店のAに電話をかけ、一週間ほど東京店で働かせてもらえないかとお願いした。Aはためらうことなくスタッフのシフトを調整し、改めて連絡すると言ってくれた。そして二日後、Aから連絡があり、東京店で一週間、七日間働かせてもらえることになった。 今、私の手元には少し色あせたインスタント写真が一枚ある。営業を終えた東京店の空いたテーブルに並んで座り、Vサインをしながら満面の笑みを浮かべているAと私。その写真を眺めながら、当時のことを静かに思い返している。

11. 大阪5年、留学を終える

オバちゃんの娘さん 私が八尾店(やおてん)で働き始めてから、本店でのオバちゃんのシフトが急激に減り始めた。目に見えて弱っていかれているように感じられた。また、週末ごとに八尾店で勤務するようになり、一緒に過ごす時間も以前ほど多くはなくなっていった。 そんなある日、(厨房の)オバちゃんから電話がかかってきた。私を実の甥のように可愛がってくださっていた娘さんが、肝臓がんで亡くなったという、すすり泣く声だった。いつ頃からか、オバちゃんの娘さんの体調が悪いことは知っていたが、それでも私に会うと、この世のどこにもないような優しい笑顔で迎えてくださる方だった。冗談もお好きで、私の冗談や日本語をとても喜んでくださる方だった。 その日、店のスケジュールを急きょ変更し、すぐに自転車に乗ってオバちゃんの家へ向かった。娘さんの遺影の前で泣き崩れているオバちゃんの前で、私も呆然としていた。その時、オジちゃんは、娘さんの臨終の直前に私を呼ぼうと思ったが、私にトラウマが残るかもしれないと思い、呼ぶことができなかったと話してくださった。そして、申し訳ないとおっしゃった。 オバちゃんは遺影に向かって、「カン君が来たよ。〇〇や…」と娘さんの名前を呼ばれた。 そして私は、私のために残してくださった形見を受け取り、夜遅くにオバちゃんの家を後にした。 オバちゃんの娘さんが亡くなり、この時期は料理をするのが本当に怖かった。そして、毎日厨房に入るのが死ぬほど嫌だった 大阪での5年 2001年、学部課程はすべて終わったが、卒業式や残された学校行事がまだ私を待っていた。デジタルカメラに残っていた撮影日を道しるべに、私は大阪での最後の時間を振り返った。 本店でも、私の最後の姿を見ようと、以前一緒に遊んでいたAやBの友人たちまで訪ねてきた。本店にはAやBがいる時にはよく来ていたが、Bの退職とAの奈良店勤務以降は、一度も来ていなかった友人たちだった。そのため、(ホール)のオバチャンやCも久しぶりの再会に驚いていた。Cはこの日、AやBの友人たちと私がホールで再会する様子を見て、笑顔で浮き立っていた。 最後までそばにいてくれた同僚のC、奈良から応援してくれたA、そして退職した後も大阪での保証人になってくれたBのおかげで、最後までこの留学生活をやり遂げることができた。 出国の日が近づくにつれ、私はAにお願いをした。本店で5年間働いていたので、経歴証明書を発行してもらえるかと聞いたところ、当然やってくれると言ってくれた。数日後、Aが本店に来て封筒を取り出し、申し訳なさそうな表情を見せた。 その経歴証明書は、きれいなコンピューターの印刷ではなく、手書きの証明書だったからだ。そして最後には社長のサインと印鑑が押されていた。 その経歴証明書は、別の筆書き業者に依頼して作成されたもので、多くの手間がかかっていたが、その時の私はまだそのことを知らなかった。 大阪での私の保証人はB 帰国の準備が進む中、会社を辞めた友人Bからも連絡があった。「うちに夕食に来ないか」と誘ってくれたのだ。 仕事を終えると、Bは本店まで私を迎えに来てくれた。Bの奥さんが心を込めて準備してくれた料理を出しながら、「大したものはございませんが、たくさん召し上がってください」と勧めてくれた。しかし、込み上げてくる涙を抑えることができず、Bと私は言葉を失ったまま食事をした。その傍らで、まだ歩くことのできない赤ん坊が、あちこちをごろごろと転がっていた。 食事を終え、Bは再び本店まで送ってくれた。以前なら車内で騒いで賑やかだったはずだが、その日は一言も交わすことができないまま、Bと別れた。いつも冗談半分で「僕の大阪の保証人はBだ。逃げちゃだめだよ」なんて言い合っていた、大切な親友である。 (厨房の)Aおばちゃんには、最後まで帰国の日を教えなかった。おばちゃんが帰国の日を尋ねるたびに、「まだ予約できていないんだ」とはぐらかし続けた。 奈良の社長宅に招かれる 奈良店のAからも連絡があった。Aは同僚の一人と共に、大阪の由緒ある高級料亭に私を招待してくれた。整った料理と軽めのビールが運ばれてきたが、楽しさよりも別れの予感が空気を重く押しつぶしていた。Aはこの食事が終わったら、奈良の社長宅へ向かうと言った。 僕はAに、「送別会はしないでほしい」とあらかじめ頼んでおいた。僕の自転車は(厨房の)おばちゃんに渡してほしいこと、そしていくらかの現金をAに託し、僕が出国した後の携帯電話代などの残債を整理してほしいとお願いした。彼は「分かった」と引き受けてくれた。 夜10時を過ぎた頃、私たちは奈良にある社長の新築の戸建てへと向かった。新築の二階建ての家では、奥様がキッチンでワインと心のこもったおつまみを用意して迎えてくださった。私たちはリビングのソファに座り、大スクリーンの映画を眺めながら、全く別の話をしていた。スクリーンの横には客用のゲストルームが二つあり、社長はその部屋を指差して笑いながらおっしゃった。 「いつか姜くんが結婚して、日本に新婚旅行に来ることがあったら、このゲストルーム二つを貸してやるよ」 その言葉が、その時からこだまのように二重の響きとなって耳に残った。 帰国の日、空港まで送ると言ってくださったが、僕は遠慮した。 奈良の社長宅から大阪の本店に着いた時には、深夜1時をゆうに回っていた。 帰国当日 帰国当日、荷物をまとめて1階へ降りてきた私は、その場に座り込んでしまった。店の片側の壁一面が、ステッカーや絵、そして心のこもった手紙で埋め尽くされていたからだ。奈良から仕事を終えて本店に到着したAが、本店のスタッフたちと一緒に作ってくれたものだった。 「今までありがとう。」「どこに行っても楽しく暮らせよ。」「これからの人生に幸運が訪れますように。」 拙い文字と温かい絵に込められた思い出を一つひとつ読みながら、私は30分間、子供のように声を上げて泣いた。壁から一枚一枚、大切に剥がして集めた。しかし、あちこちに貼られており、中には高い場所に貼られているものもあって、集めるのにも時間がかかった。 やっとの思いで別れのメモと絵を集め、本店を離れようとしたその時、足が前に進まなかった。つい先ほどまで壁に貼られていたものを一つひとつ外しながら、半ば放心状態になってしまっていた。 わずか3〜4メートルほど歩いたところで、「これはもう無理だ」と思った。結局、私はその場で飛行機のチケットの日程を変更した。そして帰国の荷物を国際郵便(EMS)で先に送り、2日後の便に予約を変更した。 その日、Aに電話をして、出国できなかったと伝えた。そして、「誰があんな高い壁面に手紙を貼ったんだ」と愚痴をこぼしたが、Aは笑いながら「そうなると思った」と言っていた。 関西空港 2日後、慣れ親しんだ長原駅から関西空港へ向かった。見慣れた周囲の風景を背に、この大阪を離れるということが信じられなかった。しかし、電車はすでに関西空港に到着していた。 出国手続きの時から、涙があふれ始めた。手続きを終えた後、まだ早朝だったため、Cと(厨房)のオバチャンにだけ電話をかけた。涙が止まらず泣き続けていると、空港の警備員が何かあったのかと心配そうに近づいてきた。 私は何でもないので心配しないでほしいと伝えたが、涙は止まらなかった。これが、私が20代を過ごした大阪だった。

10. 友人Bの結婚式、そして退職

友人Bの結婚式の招待状 ある日、友人Bから正式な結婚招待状を受け取った。本店では、Aと同級生のCも招待されており、招待状を受け取っていないオバちゃんたちの間でも、ご祝儀の話が出るほどの大きな行事だった。しかし、貧しい留学生だった私には、ご祝儀を用意するお金も、結婚式に着ていくきちんとしたスーツもなく、出席をためらわざるを得なかった。 私も結婚式の招待状を受け取ったが、出席が難しいと伝えると、Bはそんなのはあり得ないとばかりに、激しく怒った。 「ご祝儀はいらない。服も靴も全部こちらで用意するから、体ひとつで来ればいい」と言って、私を説得した。 そしてBは、自分が日頃から付き合いのある友人たちも皆来るのに、何が問題なのか理解できないと言い、怒るほどだった。そんな彼を見て、私は心が重くなった。 「直接行けなくても、Bの幸せを誰よりも心から願っていることは分かっているだろう」と言ったが、日本では式場に直接来てこそ祝福が成立するというのが彼の考えだった。 一か月近く続いたBの説得や友人たちの勧め、さらには婚約者までが直接訪ねてきた。「本当に何も気にせず来てほしい」と切実に頼まれたが、私は最後までその招待に応じることができなかった。 結局、結婚式が終わった後、私は小さな画廊(絵の部屋)に立ち寄り、絵を二点買った。新婚夫婦の寝室に合いそうな、素朴な絵だった。高価な贈り物ではなかったが、申し訳なさと祝福の気持ちを込めて渡した。しかし、歳月が流れた今でも、そのことは心の中に申し訳なさとして残っている。 そして退職 時が流れ、Bに子どもが生まれ、私が学部3年生になった頃、彼は退職を決意した。まだ若く、別の仕事に挑戦してみたいという思いもあったが、何より午後3時から夜10時まで続く勤務では、生まれたばかりの子どもと妻を支えながら、普通の家庭を築くのが難しいという理由だった。 私だけでなく、社長や奈良店のAまでが彼を引き止めようと必死に説得したが、彼の決意は固かった。彼のいなくなることを思うと、これまで私にしてくれた数々の厚意が、走馬灯のように頭をよぎった。 留学生活の中で、僕はよく「Bは非公式の僕の保証人だ」と冗談を言っていた。オバちゃんがプレゼントしてくれた冷蔵庫を、自分の車で運んでくれたこともあったし、2階に使うレンガが必要になったときには、建材店(コーナン長吉長原店)へ一緒に行ってくれたこともあった。何より、学費が足りず困っていた頃、誰にも知られないように前借りの問題を静かに処理してくれたこともあった。 また、厨房で使う個人用の包丁を会社の費用で購入できるよう、社長を説得してくれたこともあった。そして大阪日本橋の調理道具の店が並ぶ通りまで付き添い、一緒に包丁を選んで購入し、本店の営業時間に遅れないよう、ぎりぎりで戻ってきたことも、今でも鮮明に覚えている。 最も頼りにしていた友人を送り出すことになり、本店ではAは奈良店へ異動し、Bも退職し、その空虚さを隠すことはできなかった。 Bが退職してから3〜4日後、営業が終わり、従業員たちが帰った後の本店で、私はBと二人きりで会った。そして退職を思いとどまってほしいと頼んだが、妻と一緒に決めたことなので難しいと言われた。 そして、「ここを辞めても、Bは僕の保証人だからね」と冗談を言うと、彼は「心配するな」と笑って答えた。その時の姿が、今でも思い出される。 週末限定で八尾店へ Bが退職してからというもの、本店に残された僕の心は収まりがつかないほど空虚だった。たまらず奈良店に勤めているAに電話をし、「週末だけでも奈良店で働かせてもらえないか」と尋ねたが、Aは「それはダメだ、本店には姜くんが必要なんだ」と答えた。 僕は諦めきれず、当時4号店のオープンを控えていた八尾店(やおてん)で土日のみ働かせてほしいと、社長に掛け合ってくれるようAに頼み込んだ。 退職したBにも電話をかけた。Bは仕事を終えるやいなや、僕に会いに本店まで駆けつけてくれた。 僕は「もし誰かが八尾店へ行くのを止めるなら、本店を辞めて引越してやる。今まで受けてきた数々の好意もすべて無かったことにして、記憶から消し去ってやる」とまで口にした。 Bは「留学期間もあと一年ほどなのに、本店を辞めてはいけない」となだめてくれた。そしてBがAに電話をして状況を伝えてくれたおかげで、土日のみではあったが、八尾店で働けることになった。 平日は本店でカクテキやオイキムチ、コチュジャンを仕込んでおき、週末は八尾店へ行く。八尾店へ向かう前日、Aから「スタッフが車で本店まで迎えに行き、そのまま八尾店へ向かえばいい」と連絡が入った。 スタッフの車で到着した八尾店は、その規模からして圧倒的だった。作業量も一般の店とは比較にならないほどだった。八尾店で作業をしていると、いつの間にか社長が来られ、遠巻きに私の姿を黙って見守っておられた。そして僕に近づき、オープンして間もない時期の苦労や、「山を一つ切り開いて(削って)建てたんだ」と語りかけてくださった。 八尾店の設計図を持って本店に来られた社長 八尾店のオープン前、社長が設計図面や3Dパースの原本を携えて本店に来られ、図面を見せてくださったことがあった。その時は、新しく店を出すから図面を持ってこられたのだな、程度にしか考えていなかった。厨房で営業の準備に追われている最中、「図面を見てごらん」と言われ、私はさっと目を通しただけだった。 しかし、今になって振り返れば、僕が建築を専攻していることを知って、わざわざ本店まで持ってきてくださったのだと思う。「日本において偶然などない。すべての行動には理由がある」のだ。

9. 本店の隣の林工場

同じDNA 引越し後、隣の工場の社長さんに挨拶に伺った。韓国から来た留学生, 建築を専攻していると伝えた。「こちらの2階に住むことになりましたので、よろしくお願いします」と挨拶し、特に「建築と機械は同じ理系ですから、似たようなDNAを持っていますね」とお話しした。 朝の登校時間と製品の出荷時間が重なることが多く、社長さんとは次第に親しくなっていった。最初のはにかみはすぐに消え、いつのまにか心地よい親しみを感じるようになった。特別な用事がなくても、学校から帰ると本店の店先よりも先に社長さんのところへ顔を出すこともよくあった。 社長は早朝から夜の11時、12時まで休みなく働いておられた。いつからか夜遅く、退근される前に、社長は私の部屋の窓に向かって叫ぶのが日課のようになっていた。 「勉強、頑張ってるか?」 その声に、私は慌てて窓を開けて顔を出し、「はい、頑張ってます!」と大きな声で答え、再び窓を閉めた。2~3分後、社長がまた大きな声で「勉強、頑張ってるか?」と言うと、私は再び窓を開けて顔を出し、「はい、本当に頑張ってます!」と答え、窓を閉めた。 1階からは、社長の豪快な笑い声が聞こえてきた。まるで不意に飛び出すモグラ叩きゲームのように、私は窓から顔を出していた。退勤前、社長のいたずらっぽい「勉強、頑張ってるか?」という問いかけは、勉強に疲れていた私に大きな慰めとなった。 私もまた、朝の登校前、製品の出荷トラックが入ってくると、社長さんにいたずらっぽく尋ねたりした。「社長さん、本当にお金持ちですね?」社長さんは「いやいや」と首を横に振りながらも、どこか嬉しそうに笑っていらした。すると私は「今朝、出荷トラックが2台も入ってきたの、ちゃんと見ましたよ!」と言って、指を2本立てて見せた。 また、学校の課題の模型製作のために工具を貸していただけるか伺ったこともある。正直、失礼なお願いだとは思ったが、同じ系統のDNAだと思っていたからだろうか。社長さんは豪快に笑うと、私を工場の中へと連れて行き、工具が置かれた場所を指さして「必要な分だけ、いくらでも持って行って使いなさい」と言ってくださった。 はしごで2階の部屋へ上がる 課題の提出日が翌日に迫っていた。ちょうどその日は店の定休日だったので, 一日中課題に集中しようと心に決めていた。 学校の授業を終え、急いで店へと戻った。いつものように店を通って2階に上がり、作業に取り掛かるつもりだった。しかし予想に反して、まだ早い時間であるにもかかわらず、店はすでに客で溢れかえっていた。ほぼ満席の状態だ。店を通り抜けて2階へ上がることさえ、容易ではなさそうに見えた。 普段なら、少し落ち着いている時に店長のBさんや年配の(ホール)おばちゃんが、お客さんに少し断りを入れて私が通れるように道を作ってくれた。だが、その日は雰囲気が全く違っていた。客は次々と入ってき、スタッフも目の回るような忙しさで動き回っていた。今日はそんなお願いをするのは無理だと感じた。 その日準備しなければならなかったのは、大阪芸術大学建築学科の重要な課題だった。建築学科では1学期にメインの課題が2つほど出されるのだが、今回の課題はそのうちの一つだった。課題は担当教授の指導を受けた後、プレゼンテーションまで行わなければならない。発表の場では、担当教授以外の教授陣からも鋭い質問攻めが続き、担当教授と学生がそれを防戦しながら質疑応答と討論が進められるというものだった。 だからこそ、準備が非常に重要だった。特に模型製作と図面の整理で、一晩中作業しなければならない状況だった。今すぐ2階の作業場に上がったとしても、徹夜でようやく間に合うかどうかという瀬戸際だった。 状況を見守っていた店長のBさんも、私の表情を見て心配そうな顔をした。おばちゃんも「どうしたの?」と聞いてくれ、私が課題の提出の話をすると一緒に心配してくれた。 その時, ふと一つの考えが頭に浮かんだ。 「2階の窓から登ればいいんじゃないか?」 ふと思いついた考えだったが、他に方法はなかった。私はすぐに店の隣にある工場へと向かった。そこの社長さんに状況を説明した。「明日課題の提出があるのですが、店の中が忙しすぎて2階に上がれないんです」と伝えた。 社長さんは少し考えた末、はしごを一つ貸してくださった。しかし、いざはしごを立ててみると問題があった。2階の窓まであと1メートルほど足りなかったのだ。 下では店長のBさんと同僚たちがはしごを支えてくれた。私は慎重にはしごを登り始めた。上へ行くほどはしごが少しずつ揺れ、手にさらに力が入った。隣の工場の社長さんも心配になったのか、作業の手を止めて外に出て状況を見守ってくださっていた。 ようやく窓の近くまで登った時のことだ。まだ1メートルほどの距離が残っていた。ふと下を見下ろすと、思った以上に高くて恐ろしかった。一瞬足がすくみ、冷や汗が出るような思いがした。 私は窓の方へ精一杯体を伸ばした。幸い窓が少し開いており、手を伸ばして窓枠を掴むことができた。ありったけの力を振り絞って体を抱え上げた。そしてついに窓を開け、慎중하게部屋の中に入ることができた。 2階の部屋に入って窓の外を見下ろすと、下ではみんなが私を見上げていた。店長のBさんと同僚たちは手を振りながら「頑張れよ!」と叫んでくれた。 その姿を見た瞬間、胸がいっぱいになり、ただ感謝の気持ちで溢れた。ありがたさと安堵感が一気に押し寄せてきた。 そして、それ以降、二度とこの方法を使うことはなかった。 忘年会は 一月一日 毎年、忘年会の時期になると、新年のカウントダウンを終えた後、本店で食べたり飲んだりしながら時間を過ごしていた。Aが奈良店で働いていた時も、本店で忘年会を過ごすために、奈良店のスタッフたちを連れて本店の忘年会にやって来ていた。本店のスタッフだけでも、忘年会となるとかなりの人数になるのに、Aが連れてきた奈良店のスタッフまで加わると、その盛り上がりは手に負えないほどだった。 新年のカウントダウンが終わると、Aが奈良店の代表として乾杯の挨拶をし、大いに場を盛り上げた。そして本店の代表として私が乾杯の挨拶をすると、Aの時以上に大きな歓声が上がることもあった。 ある程度本店で楽しんだ後は、二次会でカラオケに行き、明け方まで過ごした。明け方に本店(2階)に戻って眠りにつくと、遅い午前になってようやく目を覚ますことが多かった。 一月一日は比較的静かだった。私はこの期間、あらかじめ借りておいたビデオを見たり、テレビを見たりしながら、本当の意味での休息を過ごしていたように思う。正月前には社長も、正月の予定があるのかと気にかけてくださり、皆が心配してくれていた。厨房のおばちゃんは、元日の朝から電話をくれて、一緒に食事をしようと誘ってくれたが、私はたいてい正月最後の休みの日に伺っていた。 AやBも、正月の翌日か、そのまた翌日になると、一階から私を呼びに来た。Aが先に来ることもあれば、Bが先に来ることもあった。 林社長の正月の風景 林社長の正月の風景は、休みの最終日頃になると、従業員やその家族まで集まり、臼と杵を使って餅をつき、あちこちから笑い声が聞こえてきた。その様子を二階から眺めていると、どこか穏やかな風景のように感じられた。 その様子を二階から眺めていると、どこか穏やかな風景のようにも感じられた。 しかし、私もおばちゃんの家へ行くには自転車を使う必要があった。私の自転車は林社長の工場の入口の内側に鍵をかけて置いてあったため、この穏やかな雰囲気の中を通り抜け、工場の中に入って自転車を取り出し、出かけなければならなかった。…

8. 本店での語り

社長は左利き 本店に来るようになってから、社長と本店で一緒に作業をする機会が多くなった。Aが奈良店へ転出する前、店が平野店と本店の二店舗しかなかった頃も、毎週末になると本店で一緒に作業することが多かった。本店は非常に忙しく、作業量も平野店よりはるかに多かった。 AやBが休みの日になると、社長は必ず本店で作業をされていた。私が作業していると、社長は横でゆっくり様子を見守り、やがて私が使っていた包丁を貸してほしいと言って、自ら作業をされることが次第に増えていった。 問題は、社長が左利き(左利き)だったことだった。私は右利きだったため、内心では少し抵抗があった。右利き用の包丁を左利きの人が使うと、刃の角度が変わってしまうのではないかと心配だったからだ。 それでも、社長が作業を終えて包丁を返してくださると、私は包丁を受け取りながら、 「そうですね、勉強になりました。ありがとうございます。」 と答えていた。しかし、早めに包丁を返してほしいとお願いすると、そのたびに社長は「もう少しやってから渡すよ」と笑いながらおっしゃった。 Aが奈良店へ転出してからは、それまで私が担当していなかった生レバー(生レバ)の作業なども、社長から直接教わる機会があった。 生レバーの作業は難易度の高い仕事だった。まず、レバーの膜を傷つけずに丁寧に剥がす必要がある。剥がした膜が透けて見えるほど繊細な作業だった。また、太い血管を見つけて取り除きながら、最終的な切り分けを頭の中で描きつつカットを進めていかなければならなかった。 なにより、この工程によって販売できる人数分の量が決まるため、誰にでも簡単に任せられる作業ではなかった。 本店の売上を持って学校に行った Aが奈良店へ異動し、本店に人手の空白が生じていた頃のことだった。ある日、仕事が終わったあと、現金売上を翌日がBの休みという理由で、私が預かることになったことがあった。その日はCも休みだったため、翌日、私がCに渡せばよいという話だった。 授業が遅く終わることを理由に一度は断ろうとした。しかし、本当に断ればどんな言葉が返ってくるかは想像がついていたので、結局は断ることができなかった。もし私が断っていたら、Bはきっとこう言ったのではないかと思う。 「ほんまに断るん?断ってもええんか?今まで俺が車でレンガ運んだり、引っ越し手伝ったり、冷蔵庫運んだりしてきたやろ。もう、これからはそういう手伝いもいらんってことやな?」 そんなふうに言われるのではないかと思い、結局、引き受けるしかなかった。 (ホール)のおばちゃんは「ウエストポーチに売上金を入れて持ち歩くのはどうか」と提案した。それに対して私は、ウエストポーチよりも前ポケットのほうが安全ではないかと提案したところ、満場一致で前ポケットが良いということになり、拍手まで起こった。 平日の売上ではあったが、決して少ない金額ではなかった。現金の束を前ポケットに入れて登校したが、地下鉄に乗ったあたりから気になり始めた。前ポケットに現金を入れているため歩きづらく、ポケットの中の分厚い現金の束を何度も手で確認しながら一日を過ごした。 その日、本店に戻ってCに渡したあと、「こんなことってあるんですかね」と、少し大げさにホールのおばちゃんに打ち明けた記憶がある。 毎日新聞に掲載された話 ある朝、本来なら奈良にいるはずの社長が、予告もなく大阪本店に姿を現した。娘さんたちを学校へ送り届けた帰りだとおっしゃっていた。 当時、大阪には私たちの本店と同じ屋号を使う別の店があった。その店もまた歴史が長く、有名な店だった。双方がそれぞれ自分たちこそ元祖だと主張し、商標登録をめぐって長い裁判が続いていたのだが、最終的にこちら側が敗訴したという話を社長は私に打ち明けてくださった。 社長は悔しさを隠しきれない様子で話していたが、そのときの私は登校準備で時間に追われており、落ち着いて話を聞ける状況ではなかった。実は数日前、大阪版の『毎日新聞』にこの判決の記事が掲載され、店のスタッフの間でもちょっとした騒ぎになっていた。私もその記事を切り抜いていたので事情は知っており、「やはり敗訴されたのか」と思った。そして、その後まもなく店の屋号は新しい名前に変更されることになった。 登校の準備を終えて店を出ようとすると、社長が「車に乗って」と声をかけてくださった。学校まで送ってくださるというのだった。普段の通学は、谷町線の長原駅から地下鉄に乗り、天王寺駅で普通または急行に乗り換えて大阪芸術大学へ向かうルートだった。電車ならそれほど時間のかかる距離ではなかった。 奈良から朝早く来られていたことや、裁判で敗訴した直後という状況もあり、断るのは気が引けて車に乗せていただいた。しかし、朝の市内は想像以上に渋滞していた。車に乗ってから一時間以上が過ぎても、車窓に見える景色は、普段電車で通っている距離のまだ半分を少し過ぎた程度だった。このままでは授業に間に合わないと思い、途中の駅の近くで降ろしていただけないかお願いした。 車を降りると、振り返ることもなく駅へ向かって走った記憶がある。社長と過ごしたあの日の通学の時間は、今でも忘れられない留学時代の一ページとして心に残っている。 セコム事件(SECOM) 店にはセコムの警備システムが設置されていた。最初に店へ引っ越したとき、引っ越し当日に店の鍵を渡されたのだが、正直少し戸惑った。なぜ自分が店の鍵を持つ必要があるのか、よく理解できなかったからだ。 すると、友人のBが詳しく説明してくれた。私が学校へ行くときは、セコムのキーには触れず、出入口の鍵だけを閉めて行けばいいと言うのだ。本来であればセコムもセットするのが正しい方法だが、学校生活で忙しいだろうからと、私の都合を考えて、学校へ行くときはセコムをセットしなくてもよいとのことだった。 また、昼間の時間帯であり、午後3〜4時頃にはAとBが出勤してくるため、無理にセットしなくても問題ないとも説明された。要するに、店内に人がいる場合はセコムを解除したままにしておかないと、誤作動が起きる可能性があるということだった。 ホールのおばちゃんAも注意してくれた。もしこの点でトラブルが起きれば、奈良にいる社長が直接来る可能性もあるという。セコムの警報が鳴れば、その信号はすぐに奈良へ送られるのだそうだ。 それ以来、学校に通っている間、いつも店の鍵をポケットに入れて持ち歩くようになった。今思えば、少しおかしな状況だった。 その後、Aが奈良店へ異動になり、本店の鍵を持っているのはBと私だけになった。ある日、Bから慌てた様子で電話がかかってきた。 出勤はしたものの、鍵を忘れてしまい、どこで失くしたのか分からないと言ってきた。そして今、店に入れないので来てもらえないかという連絡だった。Bは営業準備ができない状況だったため、まず店長に電話をしたが、店長からは先に私に連絡してみるように言われたそうだ。 その時、私は授業を終え、天王寺駅で地下鉄に乗り換えている途中だったので、すぐに到着できると伝えた。 長原に到着し、本店から約15メートルほど手前で、Bが出てきて嬉しそうに挨拶をしてくれた。しかし私は重いカバンを背負ったまま、再び学校へ向かうときの挨拶である「いってきます」と言いながら、逃げるように通り過ぎた。だが、すぐに捕まってしまい、結局店のドアを開けることになったこともあった。 しかし、Aが奈良店へ異動し、さらにBも本店を退職すると、問題が起き始めた。新しく来たスタッフもセコムの仕組みは理解していたはずだが、私が2階にいるにもかかわらず、セコムをセットしたまま退勤してしまうことがあった。 ある日、深夜にローソンへ飲み物を買いに行こうと外へ出た瞬間、セコムの警報が激しく鳴り響いた。初めてのことだったので少し戸惑ったが、店の鍵を使ってセコムを解除した。 翌日、社長が店に来て、少し興奮した様子で「昨日の夜中、セコムが鳴ったぞ!」と言われたが、私は黙って何も言わなかった。 その出来事のあと、深夜にコンビニへ行くときは、セコム解除の手順を頭の中で何度もイメージしながら出かけるようになった。 しかし、結局もう一度、深夜にセコムの警報が鳴ってしまった。ただし、このときは解除するまでの時間が、前回よりもずっと早くなっていた。…

7.真夜中に冷蔵庫を分解した

もらった冷蔵庫を分解した事件 (厨房)のおばちゃんから引っ越し祝いとしていただいた冷蔵庫は、冷蔵2段・冷凍1段の小型モデルだった。二階の部屋で一人暮らしをしていた私にとって、その冷蔵庫は必要不可欠なものだった。 事件は、建築学科2年のとき、模型課題を作っていた夜に起こった。作業に没頭しているうちに、模型の材料が尽きてしまった。部屋中を探し回って素材になりそうなものを探したが、適当なものが見つからなかった。見つからないと、さらに探し続けてしまう。そしてふと、冷蔵庫が目に入った。それはまさに大きな発見のように思えた。 分解すれば無数の部品があり、模型の素材として適したものが見つかるはずで、そこから建築模型に本物の質感を出せると強く思った。この時点では、自分でもまだそれが狂った発想だとは思っていなかった。 そしてすでに私の手は、ハンマーとドライバーで冷蔵庫を分解し始めていた。何かに取り憑かれたように解体作業に没頭した。夜12時に始まった作業は、朝3時まで続いた。無我夢中でネジを外し、ハンマー、ドライバー、ペンチなど、あらゆる工具を使った。中には林工場から借りた工具もあった。 作業の中では、うまく分離できない一体型の部品も多く、苦労もあった。 数時間が経ち、体力も尽き、ふと我に返ると、そこにはもはや冷蔵庫の姿はなく、私に叩き壊され、分解されて修復不可能な部品の山だけが散らばっていた。困惑を通り越して衝撃だった。 しばらくして、「誰がこんなことをしたんだ?」と自分に問いかけたくなった。そしてしばらく呆然と立ち尽くしていた。 すでに取り返しのつかない状態になっていた。大切にいただいた贈り物を一瞬で分解してしまったこの状況をどう説明すればいいのか、「まずい、まずい」と心の中で何度も繰り返していた。 徹夜で学校へ行ったが、頭の中は分解されて原形を失った冷蔵庫のことでいっぱいだった。結局その日の帰りに、勤務中だったB(店長)と厨房のおばちゃんにすべてを正直に話した。 おばちゃんは淡々と、「カン君がやったことなら大丈夫だ」と何度も繰り返した。 少しも責める様子を見せないその姿に、私は穴があったら入りたい気持ちだった。その冷蔵庫は単なる家電ではなく、おばちゃん家族の時間や思い出が詰まったものだったはずだ。そんな大切なものを渡すために、数週間前から楽しみにしてくれていたのだ。 解体された冷蔵庫の部品は、早朝のゴミ回収に合わせて店の横のゴミ置き場に出された。朝4時から箱やゴミを出しておけば毎日回収されていたが、不思議なことに冷蔵庫の部品だけは残されてしまった。結局それは2日間、店の道路脇に異様な姿で放置された。 アルバイトたちは「誰がこんなことを?」と不思議がり、林社長も私に「これは何だ?」と尋ねた。私はゆっくりと事情を説明した。 「昨日社長にお借りした工具でこうなりました。そして社長も共犯です」と言うと、社長は「俺は〜違う!」と大声で笑った。 3日目になって、Bの友人の産業廃棄物処理の手配のおかげかどうかは分からないが、ようやく回収された。 今振り返っても、厨房のおばちゃんには本当に申し訳なく、留学時代の最も痛い黒歴史の一つである。 そしてその後、おばちゃんは新しく同じサイズの冷蔵庫を買ってくれたのだが…… 2階、止まらないインテリア 初めて2階へ越してきた時は、**卵パック(紙製の緩衝材)**でインテリアの作業をするなんて思いもしなかった。 しかし、暮らし始めていくうちに2階の環境がわかってきた。寒い時はより寒く、暑い時はより暑いという過酷な環境だったのだ。この環境を改善するために様々な建築材料も考えたが、その時目に留まったのが、店で手に入る卵パックだった。卵を専門に大量に使う店ではなかったが、一週間に3〜4枚ほどは集まった。それも、清潔なものだけを厳選して作業に使った。 作業にあたって、大型ホームセンターのコーナン長吉長原店へ行き、スプレーラッカーを購入した。ラッカー塗装は部屋の外に作業スペースがあったので、そこで行った。接着には画鋲を使い、1枚貼るのに画鋲が1個、壁の上下を固定するのに3〜4個の画鋲が必要だった。 最初は卵パックを集める私を皆が不思議がっていたが、私の部屋を訪れて進行状況を目にすると、スタッフ全員が卵パックを集めてくれるようになった。(厨房の)おばちゃんも協力してくれ、後には他店舗からも集めてやろうかと言ってくれたが、それは丁寧にお断りした。 それ以外にも、照明やハンガーラックの設置、さらには以前店で使われていたテーブルの改造まで行った。テーブル中央の火床(ロースター)部分を取り除き、空いたスペースに天然木をはめ込んでから、ラッカー塗装で仕上げるという本格的な作業だ。 待ちに待った第3月曜日 本店の店休日は、毎月第3月曜日と正月の4日間だった。その時だけは、本当に休みらしい休みだった。毎月第3月曜日だけは、本店の近くにも来ないようにとAとBにお願いしていた。私もちゃんとした休みが必要だと言っていた。 二人は理解して、「わかった」と言ってくれた。 しかし、夕方になると私の部屋の窓の外から呼ばれることがあった。嬉しくはあったが、1階に降りて「私にもテレビを見る時間を少しください」と強く言い返した。いつもテレビを見る時間もなく、日本語もなかなか上達せず、「日本語が止まっている」と愚痴をこぼしていた。すると、「これ以上日本語が上手になったら、こっちが疲れるよ」と笑いながら、今ぐらいがちょうどいいと言われることもあった。 毎月第3月曜日の前日は、閉店後に食事を済ませると、すぐに自転車に乗って道路の向かいにあるビデオレンタル店でビデオを2〜3本借りてきた。そして夜遅くまでビデオを見ながら、翌日はゆっくり寝坊することを想像していた。しかし、なかなか思うように寝坊はできなかった。どうすれば寝坊できるかを考えたこともあった。 オバちゃんにも毎月第3月曜日は一人の休みが必要だと説明していたが、午前か午後に電話がかかってきて、結局は夕方に会うことになった。この日だけはオバちゃんの家に遅くまでいても時間のプレッシャーがなく、夜遅くまで過ごしてから、自転車に乗って電気の消えた本店に戻ったこともあった。

6. 自転車とおばちゃんの家族

おばちゃんの話 本店へ引っ越して、最初に買ったのは自転車だった。そこは自転車がなければ生活ができないほどで、コンビニに行く時も、銭湯に行く時も、クリーニングに行く時も、そしてオバちゃん(おばあさん)の家に遊びに行く時も、いつも自転車と一緒だった。厨房のオバちゃんの家は、地下鉄谷町線の長原駅から一駅離れた出戸駅の近くにあった。オバちゃんは週末になると私に電話をかけて、「家に来てご飯食べていき」と言って、よく私を呼んでくださった。 オバちゃんはオジちゃん(おじいさん)と50代の娘さんと一緒に暮らしており、自然と家族全員と親しくなった。私が行くと、いつも心のこもった家庭料理を用意してくださったり、寿司やラーメンをごちそうしてくださった。昔の家族アルバムを見せていただいたり、時にはオジちゃんと時間を忘れて話をしたこともあった。オバちゃんの家族は、日本での留学生活を支えてくれた精神的な安らぎの場所だった。 花が咲く春には一緒に桜を見に行き、大阪の名所も案内してくださった。また、ある年には遅く咲く桜を見に行こうと誘っていただき、一緒に行ったこともある。本当に家族のような方々で、オバちゃんの家族も私を孫や甥のように可愛がってくださった。オバちゃんの家族の中に、私の日常が自然に含まれていた。 私が先頭で自転車に乗ると、後ろからオバちゃんと娘さんが並んで自転車でついて来られ、笑っていた姿が今でも鮮明に思い出され、ふと立ち止まってしまう。娘さんは、遅く咲く桜(品種の違う桜)を私に見せたいと、数日前から楽しみにしておられた。その年が、娘さんと一緒に見る最後の桜になった。自転車に乗ってオバちゃんの家へ向かうあの道は、留学時代の中で最も温かい記憶として残っている。 … 韓国に帰国してからは、新しい料理の分野とサイト制作に没頭し、長い間自分の仕事にばかり集中していた。それでも、オバちゃんには月に一、二度は必ず電話をしていた。そして、いつも「いつ大阪に来れるんや」とよく聞かれていた。東京にいた時も同じだった。電話だけはしていたが、今思えば本当にばかだったと思う。土曜や日曜に時間を作って大阪へ行き、オバちゃんやオジちゃんに会い、一緒に食事でもしていれば、どれほど喜んでくださっただろうかと思うと…。 しかし、最後の瞬間まで私の名前を呼んでいたと聞いた。息子さんが私の代わりに電話を受け、そのことを伝えてくれた。おばちゃんをもっと早く訪ねて、食事でも一緒にしていれば、ここまで私の名前を呼ぶことはなかったはずだ。すべては私のせいだ。 自転車の盗難 あれほど大切にしていた自転車が消えてしまった。普段、私の自転車は店の前か、あるいは林(ハヤシ)工場の横に停めておくのだが、大学から帰ってみると、自転車は見当たらなかった。当惑と怒りがこみ上げたが, どうすることもできなかった。 私の知らせを聞いた周囲の人たちは, 皆自分のことのように心配してくれた。自転車紛失のニュースは, その日私が働いていた本店を越え, 奈良店や平野店にまで伝わった。 さらに, その日の締め作業後の食事の席では, 両店舗のスタッフがお金を出し合って新しい自転車を買ってやるという提案までしてくれた。私は申し訳ない気持ちから, きっぱりと断った。するとBが, 「自転車なしでこれからどうやって生活するんだ」と, 今にも怒り出しそうな真剣な顔で詰め寄ってきた。 「今夜、人形を作るつもりだ。そして、針(はり)じゃなくて、2階の自分の部屋にある錐(きり)でそれを刺すつもりだ。」 そう言うと、重かった空気だったにもかかわらず、皆が腹を抱えて笑い転げた。Bも笑い転げ、(ホールの)オバチャンも笑い転げていた。特に「2階の自分の部屋にある模型作業用の錐」という言葉に、ここまで笑われるとは思っていなかった。 翌日、学校から帰ると、Aから電話があった。自転車を買うまでの間、自分の自転車を貸してくれるという。すでに自転車の鍵は本店(本店)の郵便受けの中に入れておいたとも言っていた。遠慮すると、かえって怒られてしまった。 2~3日ほど自転車のない生活を送ってみると、あまりの不便さにその切実さを身に染みて感じた。その切実な思いで平日の休みの日、2階の部屋で課題に取り組んでいた私は、自転車を失くす前日から当日にかけての足取りを逆探知するように辿ってみた。何度か記憶を掘り起こし、全神経を集中させていると, ふと「ローソン」のことが頭に浮かび, 窓の外をじっと見つめた。 肉眼で確認するには遠すぎる場所だったが、ローソンから漏れる明かりの中に、何かがかすかに見えた。なぜか「あそこに自分の自転車があるはずだ」という予感が走った。皆が仕事を終えた深夜1時頃、僕は半信半疑のままローソンへと向かった。するとそこには、僕の自転車が何事もなかったかのように佇んでいた。一瞬、現実を否定したかった。 「これは僕のじゃない」と言い聞かせたかった。しかし、紛れもなく僕の自転車だった。 奇跡的に自転車を見つけ出したという知らせは、再び奈良店や平野店へと瞬く間に広まった。呆れたような反応や、からかい混じりの皮肉を言われたりもしたが, 私はそれらすべてを甘んじて受け入れた。 地下鉄と建築構造力学 周りの多くの人たちが、私の留学を無事に終えられるようにと、さまざまな形で支えてくれていることを感じていた。長吉長原に留学してきたこの「やつ」だけは、何としても卒業させなければならない――そんな思いを、むしろ私以上に強く持ってくれているように感じることも多かった。 近くのコンビニや音楽CD、ビデオのレンタル店に行こうとすると、 「勉強は大丈夫か~?」 と、冗談まじりに声をかけられることもあった。 しかし、学年が上がるにつれて、だんだんと不安に感じる科目があった。それが必修科目の「建築構造力学」だった。建築学科の友人たちも、課題の話の次によく話題にしていたのが、この建築構造力学の授業だった。 この科目は、慣れない建築構造に関する日本語に加え、複雑な力学問題を同時に解かなければならないという負担があった。もともと私は数学の問題を簡単に諦めてしまうことが多く、自分は数学が苦手だと決めつけていた。 しかし、この時ばかりは、この壁を越えなければならないという強い思いがあった。ここでつまずけば、自分の留学生活そのものが止まってしまうかもしれない。そんな危機感から、これまでにないほど集中して取り組んだ。 主に学校の図書館で構造力学の関連書籍を借り、谷町線の地下鉄の中や学校で読み続けた。当時は、自分が地下鉄の中で建築構造力学の本を読むようになるとは思ってもいなかったが、いつの間にかそれは日常の一部になっていた。その結果、上位の成績で単位を取得することができた。…

5. 店の2階、引っ越し祝い

2階には部屋が二つあり 本店の2階への引っ越しを終えた後、大型の建材店で木材やレンガ、鉄製の部品を購入し、ベッドと机を自分で作った。ちょうど自分の希望するサイズの材料が揃っていたため、製作にはそれほど時間はかからなかった。家の近くにコーナン長吉長原店という大きな建材店があったからである。 引っ越し後、ホールと厨房のオバちゃんにコインランドリーと銭湯の場所を案内し、建材店(コーナン長吉長原店)はBが紹介してくれた。 2階の部屋は二つに分かれていて、一つは寝室として、もう一つは作業室として使うことにした。 初めて部屋を見に来て2階に上がったとき、まず目に入ったのは棚だった。寝室として使う予定の部屋には何もなかったが、作業室の方には、前のオーナーが使っていたスチール製の棚と椅子が置かれていた。 棚を見た瞬間、模型制作後の保管場所としてちょうど良いと思った。制作途中の模型を一時的に置いておけば、ぶつかって壊れてしまうのを防ぐことができそうだったからだ。 そして、オーナーの椅子は高価なものだった。私が引っ越す前、オーナーはその椅子を持って行こうとしていたが、私が使うと言ったところ、譲ってくれたという。言葉の端々に、少し名残惜しそうな様子が感じられた。確か、2〜3回ほど同じ話をされていたように思う。 最初にその話を聞いたときは、この椅子は絶対に手放してはいけないと思い、特に反応をしなかった。しかし、何度か同じ話を聞くうちに、少し笑ってしまったのを覚えている。 その椅子は、硬すぎず、かといってクッションが柔らかすぎるわけでもなく、とても座り心地の良い椅子だった。実際に長時間の作業でも疲れにくく、製図作業や模型制作を行ううえで、その椅子がなかったらどうなっていただろうかと、今でも思うことがある。 2階、引っ越し祝い しばらくすると、(ホール)のオバチャンや友人たちが、いつ引っ越し祝いをするのかとせかしてきた。私は「家の構造も全部知っているのに、何の引っ越し祝いだ」と思ったが、彼らの考えは違った。ぜひやらなければならないというのだった。私はもう少し部屋を整えたいので、少し時間をほしいと頼んだ。 しばらくして引っ越し祝いの日を決め、仕事が終わった後、同僚たちを2階の自分の部屋に招待した。ところが、思いもよらない光景が広がった。みんなテレビや鏡、ダンベル、トイレットペーパーなど、たくさんのプレゼントを抱えてやって来たのだった。まったく予想していなかった。そして、運動しろと言ってダンベルまで引っ越し祝いとして持ってきてくれたその気遣いに感動した。 私は部屋の中をいろいろ説明し、いくつかの質問への答えが終わると、Aが突然、「部屋の中でチン毛を探そう」と叫んだ。 その瞬間、部屋の中は大騒ぎになった。スタッフ全員が一斉に「どこ?どこ?」と言いながら、ベッドやテーブル、床や隅々まで探し始めた。 私は「ダメだ、ダメだ」と叫びながら体を張って止めようとしたが、一人で何人も相手にすることはできず、結局あきらめてしまった。そして、みんな顔が真っ赤になりながら、お互いを見て笑い合った。 (厨房)のオバチャンは、古いものだけど冷蔵庫をくれると言ってくれた。引っ越し祝いの後はさらに楽しく過ごしたが、学校の課題はどんどん増え、忙しい時期でもあった。仕事が終わると、毎日のように課題作業で徹夜になることが多かった。眠気に耐えられないときは、靴を履いたまま眠ると緊張のせいか、一時間ほど短く眠れる方法も身につけた。 時には本店の仕事が終わった後、Bが友人たちの集まりに連れて行ってくれた。Bは大阪で暮らすなら、新しい友人がいれば寂しくないと言って、友人たちを紹介してくれた。集まりは明け方まで続くことが多く、車で送ってくれることも頻繁にあった。時にはBと二人きりで、夜遅くに相撲取りが経営する和食店に連れて行かれ、挨拶をさせてもらったこともあった。 Aも時間を作ってほしいと言い、大阪の有名なしゃぶしゃぶ専門店やそば専門店などに連れて行ってくれることもあったが、Bと競っているように感じられたので、少し遠慮しようと思った。 引っ越し祝いから数日後、(ホール)のオバチャンが突然私に聞いた。「カン君、帰化するつもりはないの?」 私は一瞬驚き、厨房スタッフも含め、みんなの視線が自分に集まるのを感じた。そしてすぐに答えた。 「まだ引っ越し祝いをもらっていない人のリストがあるんだよ~」 「それに、○○と○○は、私に対する態度があ~~~んまり良くないんだよね?」「だからダメなんです。(ホル)おばちゃん、どう思います?」 すると、私の冗談に(ホル)おばちゃんは笑いながら彼を軽くたしなめた。すると、彼は笑いすぎて顔を赤くしながら、今度は私に抗議してきたりもした。 Aが奈良店へ転勤 学部2年生の頃、店は本店と平野店に続き、新たに奈良店をオープンした。ところが開店から間もなくして、いつも一緒に過ごしていた親友のAを奈良店へ転出させるという決定が下された。 一番ショックを受けたのは当のご本人であるAだったに違いないが、私自身もそれに劣らず心が重かった。慣れない異国の地で頼りにしていた無二の親友が、ある日突然遠くへ離れてしまう事実に、大きな喪失感を覚えざるを得なかった。奈良店のオープンと同時に発令されたのであればまだ納得もできただろうが、皆で楽しく過ごしていた最中の急な知らせに、ただただ戸惑うばかりだった。 噂によれば、ホールの「おばちゃん」が仕事終わりに、「勉強もせずにAやBと遊び回っていることを社長に報告する」と警告していたらしく、そのことも今回の決定に影響したのではないかと感じている。 Aにとって本店は社会人としての第一歩を踏み出した場所であり、人一倍思い入れも深く、離れることをひどく名残惜しんでいた。 (Aにとって本店は社会人としての第一歩を踏み出した場所であり、思い入れも深く, 離れることをひどく名残惜しんでいた。) ある日の午前、少し遅めの時間に大学へ向かおうとした時のことだ。まだ早い時間であるにもかかわらず、Aと社長が本店に到着していた。Aは椅子に座ってカップラーメンをすすっており、社長はその横の柱に寄りかかって、きまり悪そうにじっと立っていた。そこには奇妙な沈黙が流れていた。私はカップラーメンを食べているAに、一体何があったのかと尋ねた。するとA은, 「あのさ、俺、奈良店に行くことになったんだ」と、今にも泣き出しそうな、やるせない声で言った。 私は少し考えた後、「俺も奈良店に行っちゃダメかな? 土日だけでもいいから…」と聞いてみたが、それは叶わなかった。 ところが、Aはすぐさま悔しそうな表情を消し、いつもの活気ある姿に戻っていた。 今になって振り返り、あの状況を黙って見守っていた社長が一体何を考えていたのかと想像してみると、どこか可笑しくて、ふと笑みがこぼれてしまうような場面でもある。 Aが製図板を持ってきた 奈良へ転決して一週間ほど経った頃、Aから電話がきた。「渡したいものがある」というのだ。それは「製図板」だった。私は製図板と聞いて内心嬉しかったが、小ぶりな携帯用だろうと思っていた。ところが、目の前に現れたのは実務用の本格的な製図板だった。これには本当に驚いた。 実の兄が使っているものらしく、卒業まで使っていいと言ってくれた。 一週間のうちにAの顔つきも良くなっていた。先日、奈良店への転出をあれほど嫌がっていた姿とは一変して、とても生き生きとした声で「勉強、頑張れよ」と声をかけてくれた。…